連載小説 追憶の旅     「第4章  別れのとき」
                                 作:夢野 仲夫


  
 (本文) 恵理の葛藤
 
 別れの時26 通算991
 武士の時代の殿様を「不倫の子」として蔑(さげす)む人はいない。彼の中で何かが壊れていた。今までずっと正しいと信じていたものが、本当に正しいのかとの疑問が次々と湧いて止まなかった。
 「リョウ君、何を考えているの?」恵里の言葉で我に返った。
 「君のことだけ…。」
 「ホント?」
 「リョウ君には奥さんがいる。美津子さんがいる。それに美紀もいる。わたし、それが分かっていても…リョウ君が好き…。」

 別れの時27 通算992
 どこかで聞いた台詞(せりふ)であった。世間では認められない考えだろう。しかし、美紀も恵里も間違っていると、誰が言い切れるだろうか?時代を越え、空間を越えた倫理は存在するのだろうか?
 人を好きになることは人間、広く言えば動物のDNAを受け継がせるために、自然が与えた感情かもしれない。それを否定することは、生物の存在を否定することにならないだろうか?
 しかし、良の頭にはタブーが錆(さび)のようにこびりついているのも事実であった。

 別れの時28 通算993
 その社会の倫理を否定することは、その社会を否定することになる。その報いは社会から受ける。俺はそれに耐えられるのだろうか?世の中の「ならい」に逆らい生きることは、その社会での制裁を甘んじて受けなければならないことを意味する。−良の心に激しい葛藤が渦巻いた。
 「リョウ君…。」甘い囁きが耳元に響いた。
 「わたし…リョウ君を独占できないことは分かっているの…でも、大切な…想い出だけは…」

 別れの時29 通算994
  一途な恵理であった。自分の娘ほど年の離れた子の切ない思いは良を苦しめた。
 「何も知らないで結婚して、貞淑な妻で一生を終える人生は…余りにも寂しすぎる。みんな色んな男の人と遊んで結婚するのに…。」
 「恵理。」
 「はい。」互いに抱きしめ合っていた。
 「二人だけでドライブしようか?」
 「ホント?約束してくれる?」 恵理の表情が一気に明るくなった。
 「リョウ君、約束よ。絶対に忘れないでよ。」

 別れの時30 通算995
 「もう一度キスして…。」恵理はうっとりした表情で目を閉じた。彼が唇を重ねると、彼女の方から舌を入れた。ゆったりした恵理の舌使いに、恵理の心の安らぎと良への信頼が感じられた。
 同時に三人の女性に惹かれ、その間で揺れ動く良には、社会の掟(おきて)がズシリと圧し掛かるかもしれなかった。生きてきた四十二年の転機を迎えつつあるのを予感しながら、それが何であるのかの見当もつかない良であった。
 しがらみを否定しながら、さらにそれを複雑にしている良でもあった。彼は自己矛盾に満ちていた。


        第4章  別れのとき

  
 (本文) 「レイクサイドホテル」

別れの時31 通算996
 「ミツコ、どこへ行きたい?」
 「リョウの行く所ならどこでも。」二十年前とまるで同じだった。体の関係が復活した後も彼女は変わらなかった。
 「遠出をしようか?」
 「嬉しいわ、リョウと長い時間一緒にいられるから。」
 「湖のそばのホテルで食事するのはどう?」
 「ロマンチックねぇ。ホテルに泊まるの?」
 「まさか…家庭もあるミツコを一泊させるなんて、とてもできないだろう。」
 「わたしはいいのよ。電話しておくだけで。」

 別れの時32 通算997
 「ミツコは自由に生きているんだ…。」
 「自由という訳ではないけど…。リョウは奥さんが許さないでしょ。」
 「…。」 良にまたしても美津子への不信感が芽生えていた。家庭を自由に空けることが日常茶飯事になっているのではないかとの疑問が生じていた。
 ラブホテルの入り方を熟知していたように感じたときと同じ疑惑であった。
 「リョウ、どうしたの?」
 「ううん、何も。でも、どうして?」
 「何かわたしを疑っていない?」

 別れの時33 通算998
 「よく家を空けるのかい、ミツコは?」
 「なぜ、そういうこと言うの?」
 「だって、電話一つで泊ってもいいんだろう。」
 「主人はわたしを信用しているからなの。リョウは奥さんを信じているの?」
 「分からない…。」良は離婚していることを言わなかった。人生の転機を感じている今、言えば新たなしがらみが生まれそうでならなかった。
 「リョウも奥さんを信じてあげなければダメよ。」
 「そうだね…。」

 別れの時34 通算999
 「信じる」という得体のしれない言葉で、サラリと流されたように良は感じていた。美津子と会う度に生まれる不信感は、彼の中で膨らみつつあった。
 しかし、彼にはそれを問いただす勇気はなかった。別れをどこかで意識しながら、美津子への捨てきれない未練と狂おしいほどの執着があった。
 それだけではなかった。美津子を責められない、彼自身の行動も躊躇(ちゅうちょ)させた。美紀との体の関係、恵理への限りない愛しさが、美津子を責める資格がないことを自分自身が最も自覚していた。

 別れの時35 通算1000
 「リョウ、覚えている。大学祭の夜のこと…。」仕送りも限られていた良はアルバイトに明け暮れていた。彼が出席したのは四回生のときだけあった。
 「ハワイアンバンドの司会をしたのを覚えている?」美津子はさりげなく話題を逸(そ)らせた。 それがさらに良の不信感を募らせた。しかし、決して口にはしなかった。
 「俺には美津子を責める資格が無い。責められるべきは、むしろ、自分の方だ。」との思いが強かった。

 次のページへ(1001〜1010)

       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

       第4章 別れのとき(BN)
 (0965〜) 親友花村部長と4人で「寿司屋 瀬戸」
 (0986〜) 恵理の葛藤
 (0996〜) レイクサイドホテル
 (1031〜) 美津子との距離
 (1046〜) 美紀のマンションで
 (1066〜) 恵理との小旅行
 (1083〜) 「日本料理 池田」
 (1094〜) 「恵理へのラブレター」
 (1111〜) 「恵理の初めての経験」
 (1176〜) 美津子の秘密「和風居酒屋 参萬両」
 (1196〜)  美紀への傾倒
 (1221〜)  最後のメール

カウンタ

                           トップページへ  追憶の旅トップへ