連載小説 追憶の旅 「第1章  美津子との再会」

                                   作:夢野 仲夫

 美津子との再会271
 「ミツコの匂いをずっと覚えているんだ、俺。」
 「リョウ、恥ずかしいこといわないで。」
 「違う!君の家で使っていた浴用石鹸の匂いのことだ。」
「あの時からずっと俺は君の匂いと思っている。」
  「リョウが私の匂いと思っているなんて…」
  「君と別れてから、俺はずっとあの石鹸を探したよ。」
 「リョウ…そんなに私のことを…」
  「だってミツコは俺の弥勒菩薩(みろくぼさつ)だから…」

  美津子との再会272
  「まだ、そんなことを言うの。私はそんな女じゃない!良は私を美化し過ぎ。私は情念の深い女かもしれないわ。」
   彼女の口から情念という言葉が出るとは思いもしなかった。二十年もの間、美津子への思いを捨てられなかった彼こそ情念の塊(かたまり)のように感じた。
  「リョウは違うわ、リョウは一途なの。何事にも一途なの。」 彼女は堰(せき)を切ったように饒舌(じょうぜつ)になった。

 美津子との再会273
  「主人は良い人。とっても良い人。ハンサムでステキで若い女の子にも人気がある。それにエリートだし、私にも優しいわ。浮気はしているだろうけど家庭は決して壊さない。安心できる人なの。」
  「でも、何かかが違うの。リョウとは何かが違うの。それが何か、私にも分からない…」 良には彼女の意味が理解できなかった。それ以上何が欲しいのだろう?
  「誰にも分かってもらえないだろうけど…」

 美津子との再会274
  「割烹 水無川(みながわ)」での言動は気持ちを抑えていたのだろう。だが、他人が羨(うらや)む夫に何が不満なのであろうか?
  「リョウは捨て身になれる。でも主人は捨て身になれない。」
  「主人は一夜の浮気ができるけど、リョウは絶対にできない。リョウはずっと尾を引く人。」
  「そうだわ、主人は賢い人。リョウはバカ、どうしようもないおバカさん。」
  「あ〜あ、バカにされちゃったよ。」
  「リョウ、茶化さないで!わたし本気で言っているのよ。」

 美津子との再会275
  「どこか違うものを感じながらも、リョウと会うまで私は自分の生活に満足していた。でも…リョウに会ってから…」
  「ミツコ、止めよう、そんな話。」
  「聞いてはくれないの?リョウ、お願い!もう少しだけ聞いて!」  美津子の口から出る言葉に良は戸惑った。彼の太腿(ふともも)に置いている美津子の手に彼の左手をそっと重ねた。

 美津子との再会276
 彼女は両手で彼の手を握った。愛情のこもった、包み込むような優しい握り方だった。美津子の目から大粒の涙が流れていた。
  「リョウに会ってから…何かが壊れていくようなの…今までずっと心の底に澱(よど)んでいたものが…私の中で大きくなっていくの…」
  「ずっと幸せだと信じていた私の人生は、私の人生は…何だったのだろう?…」
  「ミツコだけじゃない。誰だって自分の人生に疑問を持っている。俺だっていつも悩んでいる。」

 美津子との再会277
 「分かって、リョウ、お願い!リョウが考えるよりもっと、もっと深いの。」
  「本当は…本当は…いつもリョウと一緒に居たいの!たったそれだけなの!」
  どんな人間でも受け入れる慈悲深さ、常に上品な笑みをたたえている優しさ、憎しみ・嫌悪などの感情から正反対にある物静かさ−弥勒菩薩(みろくぼさつ)に重なっていた美津子にも、人知れず強い情念があったのだ。良は軽い戸惑いを覚えた。

 美津子との再会278
  「こうしてリョウといるだけで私は満たされるの。それだけで幸せなの。」  良には妻が、美津子には夫がいる。お互いに口にしてはならないタブーであった。
  「でも、リョウを困らせたくない。ときどき食事に連れて行ってくれるだけでいい…」  美津子の思いに良も目頭(めがしら)が熱くなった。 すべての原因は良にあった。
  「俺の弱さのために美津子を両親から奪えなかった。ボタンの掛け違いが二人の人生を変えたのだ。」−良には何も答えられなかった。

 美津子との再会279
  美津子と別れた後、憎しみだけが良の支えだった。
 「憎しみが命だった俺のあの頃は一体何だったのだろう?」−自分自身の弱さとコンプレックスを恨(うら)んだ。それは良だけの問題ではなかった。 一人の女性までも傷つけることになったのだ。
 たった一つの選択の間違いが、次の間違いを生む。それがまた次の間違いを生む。その連鎖の果ては自分に跳(はね)ね返る。良は底知れぬ恐怖を覚えた。

 美津子との再会280
 「レストラン ドリームブリッジ」は客もまばらだった。平日の夜はさすがに郊外まで来るのがためらわれるのだろう。
 緑に囲まれた自然の中にログハウス風の建物が一軒だけ。夜はライトアップしていて恋人が食事をしながら語り合う絶好のロケーションであった。
  「リョウ、素敵なレストランね。それに良い名前ね。」
  「恋人同士の夢の架け橋になればいいとの経営者の思いだろう。」  いつも親しそうに挨拶するオーナーもホール担当の女性も軽く会釈(えしゃく)をするだけだった。それほど美津子の美しさは周りを圧倒していた。

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        第1章 美津子との再会(BN)
 (0001〜) 偶然の再会「イタリア料理まちかど」
 (0021〜) 別れの日
 (0034〜) 家族の留守の夜
 0047〜) 初めての衝撃的な出会い
 (0053〜) キスを拒む美津子
 (0070〜) 恵里と美紀との食事 フランス料理「ビストロ シノザキ」
 (0091〜) 一人で思いに耽る良「和風居酒屋 参萬両」
 (0101〜) 良に甘える恵理「おでん 志乃」
 (0123〜) 恵理・美紀と良の心の故郷「和風居酒屋 参萬両」
 (0131〜) 恵理と食事の帰り路「おでん 志乃」
 (0141〜) 再び美津子と出会う「寿司屋 瀬戸」
 (0161〜) 恵理のお見合いの結末「焼き肉屋 赤のれん」
 (0181〜) 美津子と二十年ぶりの食事「割烹旅館 水無川(みながわ)」
 (0195〜) 美津子に貰ったネクタイの波紋「焼き鳥屋 鳥好(とりこう)」
 (0206〜) 美紀のマンションで、恵理と二人きりの夜
 (0236〜) 恵理と美津子の鉢合わせ「寿司屋 瀬戸」
 (0261〜) 美津子からの電話
 (0280〜) 深い悩みを打ち明ける美津子「レストラン ドリームブリッジ」
 (0296〜) 飲めない酒を浴びるように飲む「和風居酒屋 参萬両」
 (0301〜) 美紀のマンションで目覚めた良


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