連載小説 追憶の旅  「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

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 良は一人で「会員制クラブ 志摩宮(しまみや)」で飲んでいた。ほとんど飲めない良であったが、ふと思いついたときに立ち寄る店であった。
 グランドピアノを中央の壁際に置き、その周りに十席ばかりのカウンターがあった。元歌手のマスター一人でやっていた。
 歌の好きな人たちが常連で、それほど流行っている店ではなかった。自分が歌いたいお客さんばかりなので、彼は閉店近くに訪れた。

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 他のお客さんが帰ったのを見届けては、「マスター歌って。」とリクエストするのが常だった。 良のリクエストはグラシェラ・スサーナの曲が多かった。
 「やはり、このお店だったのね。」 一人の若い女性が入ってきた。元歌手のために芸能人の出入りする店だったので、マスターの知り合いの歌手かと思った。
 「部長だったのね…。そうだと思ったわ。」
 「紺野君か?てっきり売れない歌手かと思ったよ。」
 「売れない歌手はないでしょ。」

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 「パパから聞いたの。私のときどき行く店に、柳原という人が来ている。胸のバッチではどうも美紀の会社の人だと思う、って。」
 「それに父が行くのは静かなお店ばかりなので、部長以外にないと分かったわ。」
 「マスター、ウルサイのが来たけど許して下さい。」 マスターは笑っている。
 「紺野社長のお嬢さん?」 「はい。」
 「社長さんそっくりで…。お父様には大変お世話になっています。」

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 「いつも父がご迷惑をお掛けしているのではないでしょうか?」 しつけのしっかりされた美紀は丁寧な挨拶をした。幼い時から身に付いた上品さはさすがであった。   「紺野君何を飲む?」
 「部長と同じ物がいいです。」 いつもはビールだが、この店ではある外国製のウイスキーの水割りに決めていた。
 「いつもビールなのに、このお店では水割りですか?」
 「ときどき接待に使うのでね。わたしがあまり飲めないので、マスターがわたしのは薄くしてくれるから…。」

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 「お客さんが一杯飲むと、わたしも一杯、二杯飲むと二杯飲まなければ、お客さんは楽しくないからねぇ。」
 「それに匂いの強いウイスキーは苦手で、常にこのウイスキーにしている。」
 「柳原さんはこのウイスキーしかお飲みにならないので、店に無い時は隣の店に借りに行くこともあります。」 初めて会った美紀に親しそうに話すマスター。
 「実はお嬢様が幼い時、社長さんと奥さまとご一緒にお見えになったことがあります。」

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 「そう言えば…。幼い時に来た記憶があるような…。でも、中が違っているような…。お店の中に見たこともない大きなモニターがあって、父が歌うとモニターに映っていた…。それに美しい女性が何人もいた…。」
 「よ〜く覚えていらっしゃいますねぇ。さすが紺野社長のお嬢さんです。記憶の良さには驚きました。当時は店の中を、テレビ局内のスタジオのようにしていまして…。今は場所も変わって、わたし一人でやっています。」

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 「マスター、わたしより長い知り合いということになるね。」
 「そうなりますか?」
 「マスターはいつも社長さんと呼んでいたから、わたしは今までまったく気がつかなかった。そういえば紺野君とそっくりだ。ハンサムでスタイルのいい社長さんだと感じていた。」
 まじまじと美紀の顔をみた。鼻筋が通った端正(たんせい)な顔立ちは父親そっくりだった。
 「ジロジロ見ないで下さい。恥ずかしいじゃないですか。」

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 「社長さんは歌がお上手でプロ並みです。」
 「そう、ホントに上手いよ。知っている?」
 「下手の横好きです。でも、家では自慢しています。カラオケセットを買って、暇(ひま)なときに練習しているようです。そのたびに『味噌が腐る!』と母に怒られています。」
 「ハッ、ハッ、ハッ、」 マスターも良も笑ってしまった。
 「お嬢さんも一曲どうですか?」
 「ダメです、わたしは音痴ですから止めておきます。」

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 「部長がどんなところで飲んでいるか知りたくて来ただけです。」
 「私立探偵か、君は。」
 「はい、部長の周辺調査をしています。」 悪戯っぽく良を見つめた。 良は慌(あわ)てて美紀から目をそらした。マスターは何かを感じたようだった。
 「この間のプロジェクトどうでした?失礼ですが、あまり評判が良くないみたい。」 仕事の話ではなく、もっと話したいことがあるのが良に伝わった。
 しかし、マスターの存在でで、それは憚(はばか)られるのだろう。

 良の苦悩30 通算660
 良の左の席に座った美紀はピアノを弾く席からは死角になっていた。
 二人の会話を聞かないふりをしてピアノを静かに弾くマスターの目を盗むように、美紀は太腿に置いた良の左手を握り締めた。その手がすべてを物語っていた。
 「どんな評判かね?」
 「見せかけの商品回転率を上げるために…。」 企業秘密の話になりそうになって、慌(あわ)てて美紀は口を閉じた。
 「安易な仕事が蔓延(まんえん)しているからねぇ。」

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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