連載小説 追憶の旅  「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

 良の苦悩31 通算661
 互いにもどかしさを感じていた。しかし、美紀の父親が常連の店ではどうすることもできなかった。
 「マスター、部長もここでは歌いますか?」
 「柳原さんはわたしの歌を聞いてくれるだけ…。」
 「マスターは元歌手で本格的なレッスンを受けている。聞くと驚くような作曲家の内弟子だったから、いまどきの若い歌手とは比べ物にならない。」
 「えー、そうなんですか?」

 良の苦悩32 通算662
 「自分が歌うのが好きなお客さんが多いから、お客さんが居なくなる閉店間際に来てはマスターの歌を聞かせて貰っている。」
 「わたし一人だけのためのライヴだ。飲めないお酒だけど、マスターのライヴを一人で楽しみながら水割りを飲む。至福のひと時だよ。」
 「いいなぁ。部長にもそんな楽しみがあったんだ。わたしも聞きたいなぁ。」
 「マスター、わたしの一番好きな曲を歌って。」 わずかに微笑みながらピアノはイントロに入った。

 良の苦悩33 通算663  
 あなたゆえ くるおしく 乱れた 私の心よ 
 まどわされ そむかれて 戸惑う 愛のまぼろし  
 囁(ささや)くような低い音から始まった。それは美津子が良の心を乱し、惑(まど)わせた二十年そのものであった。
 マスターの静かに訴えるような声は、いつ聞いても良の心に響いた。
 さびの部分では良の情念を激しく表すような歌声に一転した。

 良の苦悩34 通算664  
 ……私はあなたの 愛の奴隷 命も真心も あげていたいの 
    あなたがいないと 生きる力も 失われていく 砂時計… 
 マスターのコントラバスが店内に響いた。そこには失ってはならない人を、失ってしまった人しか理解できない愛の情念があった。
 隣のカウンターに涙が落ちた。美紀は泣いていた。彼は声を掛けなかった。いや、声を掛けられなかったのだ。

 良の苦悩35 通算665  
 そしてまた、静かに囁くような歌声に変わった。  
  思い出は 遠すぎて 涙は今日も ほほぬらす  
  かなしみを つれながら 歩けば影も 重たい
 美紀は涙を流し続けた。 さびの部分では同じように声を張り上げた。良もまた目が潤んでいた。
 忘れようとしても彼を捉(とら)えて離さない美津子の幻影。その彼女が彼の目の前に現れたのだ。
 すべての想い出が走馬灯のように駆け巡(かけめぐ)るのだった。

 良の苦悩36 通算666
 「お粗末でした。」 良に軽く会釈した。
 何も答えない美紀を訝(いぶか)しがったマスターは立ちあがって涙を流している美紀を見た。良に何かを言いたそうであったが黙ってピアノに向かった。
 「…歌を聞いて泣いたのは初めて…。わたし…なぜ泣くの?」
 「…お嬢さんは…。」 マスターは言葉を濁した。「……。」
 「マスター、何か歌って下さい。」
 「若い人に合う曲をわたしはあまり知りません。」
 「部長が好きな曲をお願いします。」

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 次もグラシェラ・スサーナの曲だった。彼は若い時からずっとスサーナのファンであった。というより彼女の歌のファンだった。
 彼女はずっと涙を流していた。自分の人生を重ねて聞いていたのだろうか?
 「ピーナツを出しましょう。」 カウンターにオツマミがないのに気付いたマスターが奥の部屋から取り出した。
 「ピーナツをときどき食べたいとおっしゃっていた訳が、やっと分かりました。」

 良の苦悩38 通算668
 支払いを済ませようとしたとき、
  「わたしが来たことを父に内緒にして下さい。わたしも父も何となく来にくくなりますから。」  相変わらず頭の回転の良い子だった。
 「分かっています。」
 「大丈夫だよ。君が来たことを言っても…。」
 「わたしイヤです!」
 「それにマスターは、誰々がいつ来たかなどは絶対に言わない。昨日まで仲が良くても、今日は仲互(なかたが)いしていることもあるから。」

 良の苦悩39 通算669
 「その人のことを言えば、次からどちらにも来てもらえなくなるのを、イヤと言うほど知っている。そうだろう、会社の中の派閥(はばつ)を移る人も多いから。」 マスターは微笑んでいる。
  「クラブ 志摩宮」を出た二人は目的もなく歩いた。互いに何か物足りなさを感じていた。
 「部長、忘れていました。アパートに完熟マンゴーがあります。ぜひ、一緒に食べませんか?」
 「自分で買ったの?」
 「高くて買えません。頂きものを昨日、弟が届けてくれました。」
 お互いに大義名分(たいぎめいぶん)を探していたのだ。

 良の苦悩40 通算670
 良が完熟マンゴーを好きなことを知っていて、さりげなく誘った。
 「じゃ、ちょっとだけ。自分では買えないからなぁ。」
 「一人で食べるのはもったいなくて…。」  彼らはタクシーを拾った。タクシーに乗ると美紀は手を握ってきた。その手はしっとり湿っていた。
 「完熟マンゴーはずっと食べてないなぁ。わたしが食べられるのは、二年に一度くらいだからなぁ。」 握られた手を逆に強く握り返した。
 「うふ、リョウ君は食い意地が張っているのね。」

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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