連載小説 追憶の旅  「第3章  良の苦悩
                                 作:夢野 仲夫

 良の苦悩121 通算751
 「朱里(あかり)ちゃん、焼けぽっくいに火がついたらどうなる?」 朱里(あかり)はじっと良の目を見た。
 「男は変わらないわ。ずっと彼女の昔の良さを追い求めて。 」彼女は顔を背(そむ)けて声を落とした。
 「女は変わるのよ。昔のイメージ通りと最初は思っていても、見た目だけじゃなく、心の中は若い時とは…。」 朱里が何を言いたいかが分かった。
 「でも、あまり変わらない女性もいるだろう?」
 「男はそうあって欲しいと願うようね…。」

 良の苦悩122 通算752
 「最初は同じように見えても…昔とは大違い…。部長さんは泡沫(うたかた)の夢を見ているのよ。」 
 「…。」
 「女は演技が上手いのよ。男を騙すなんて…。赤子の手をねじるようなものよ。」
 「…。」
 「部長さんには言いにくいけど、あなたは純情だから騙されやすいの。」
 「…水商売にいるから、そう思うんじゃない?」
 「世間の人はそう見るみたいね。だけど、立ち回りが上手い人は水商売には入らないわ。」
 「…。」

 良の苦悩123 通算753
 「素人の方が上手い場合だってあるのよ。最近の素人は恐いわよ…。」
 「…。」
 「特に虫も殺さないような女ほど恐いからね…。」
 「…。」
 「もちろん、全員がそんなことはないわよ。ずっと一筋の女もいるわ。ただ…。」
 「ただ?」
 「そういう女こそ恐いわよ。」
 「なぜ?」
 「すべてを捨てるから…。主人だけでなく子どもさえも…。」
 「愛しているのね?その方を…。」

 良の苦悩124 通算754
 朱里(あかり)の言葉は、良の胸にズシリとこたえた。
 「ミツコは強(したた)かな女なのか?」 ふと不安がよぎった。ラブホテルでの小さな動きが良に疑念を抱かせていた。
 しかし、一方では美津子の思いつめた表情は、決して演技ではあり得ない迫真力があった。
 「いずれにしても…部長さんは失うものが多すぎるような…。」
 「分かっている。だけど…、二十年もの間、ずっと…。」

 良の苦悩125 通算755
 「二十年も?羨ましいわ。昔のわたしの彼も、部長さんのような人だったら、わたしはこの世界に入っていないわ。」  朱里(あかり)は遠くを見やった。
 彼女もまた過去の幻影にとらわれているのかもしれなかった。
 人はみな、他人に言えない悲しみや悩みを抱いて生きているのかもしれない。
 いや、生きるということは悩むということであろうか?

 良の苦悩126 通算756
 「先日は失礼しました。」ビストロ・シノザキに恵理と二人でやってきた。 シェフは前回の料理を恥じていた。
 フランス料理世界大会のメダリストが、まだ二十五歳の子に謝ることができるのだ。一流だからこそ反省ができるのだろう。
 「今日はお嬢さんの味付けは変えさせて頂きます。」
 「シェフ、ごめんなさい。わたしが生意気なことを言ったために。本当にごめんなさい。」
 「そのようにおっしゃられると、余計恥ずかしくなります。」

 良の苦悩127 通算757  
 「部長はキッシュが本当に好きですねぇ。」 美味しそうに食べる良を、うっとりした表情で見ている恵理。
 「君は?」
 「わたしも大好きです。」
 「このポタージュはどうかね?」
 「コクがあってとても美味しいです。部長、少しだけいいですか?」 そういって彼のホウレンソウのポタージュを欲しがった。
 「君のスプーンで取ればいいよ。」
 「ホントにいいですか?」 彼をじっと見つめた。 そのあと申し訳なさそうに、良の皿からスプーンですくった。

 良の苦悩128 通算758
 「どう?違うかな?」
 「はい、部長のポタージュの方が薄味になっています。微妙な違いだけど…。」
 恵理が料理の味を比べたいとは思えなかった。良と同じ皿からポタージュを飲むことに歓びを感じているようであった。
 「部長も…わたしのを…。」 恵理のささやかな歓びがいじらしかった。
 「確かに…。微妙なちがいだなぁ。」
 「でしょう。」 恵理は嬉しそうに微笑んだ。

 良の苦悩129 通算759
 魚料理は貝柱とスズキのアメリカンソースであった。シェフは彼がアメリカンソースが好きなことも熟知していた。
 「ソースの中ではこれが一番好きでね。」
 「美味しいッ!」 恵理はまるで子どものように喜んでいる。小さな幸せを噛みしめるような恵理に、良は言いようのない恐さを感じていた。
 それは恵理に対してだけではなかった。良自身に対してでもあった。幸せな時ほど不安を感じるのが良であった。
 ふと、恵里との幸せな生活が頭に浮かんだ。彼は慌ててそれを打ち消した。

 良の苦悩130 通算760
 「この幸せがいつまで続くのだろう?」 彼の頭の中には常に脅(おび)えがあった。それは何から来るものなのかは分からなかった。
 「部長、どうしたの?」 敏感な彼女は良の変化に気付いた。
 「えっ、何のこと?」
 「何か不安を感じているみたい。」
 「何もない…。」
 「ソースも一口いいですか?」
 「いいとも!」芸人の口調を真似た。 嬉しそうにソースをスプーンですくい取る恵理。まるで二十年前の美津子と重なった。

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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