連載小説 追憶の旅     「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

    
美紀の弟・正一郎との出会い 「イタリア料理・ローマ」
 
 良の苦悩171 通算801
 「美紀。」「はい。」
 「今日はありがとう。」
 「わたしの方がお礼を言わなければならないのに。」
 「ショウ君を教えながら、自分を知らない人の役に立てたと、逆に感謝している。」
 「…?」美紀には良の深い闇が見えないようだった。
 「短い時間だったけど、自分を知らない世界に身をおくことができた。会社のしがらみとはまったく関係がない世界に…。」
 「…ごめんなさい。…よくわかりません…。」彼女の言葉には力がなかった。
 「今までと違う世界に生きることができたような気がする。」「…。」

 良の苦悩172 通算802
 「数学を教えながら、何かを教えて貰っているのは、実は私ではないかと感じていた…。」
 「リョウ君の考えていることを分かりたいのに…わたしには分からない…。ごめんなさい…。分かってあげられなくて、ごめんなさい…。」
 美紀は良の苦しみを共有できないもどかしさに自分を責めていた。
 「君の年齢では分からない。それが当然だ。」
 「でも…リョウ君がそんなに苦しんでいるのに…。」

 良の苦悩173 通算803
 「ありがとう、美紀。美紀は泣いているより笑っている方が素敵だよ。」
 「だってぇ…。リョウ君が泣かせるんだもの…。」 腕の中で美紀は甘えた。二十五歳の張りのある豊かな胸が良に押し付けられた。
 良は触れたい衝動に駆られたが、それを必死に押さえた。 また、新たなしがらみが生まれ、それがまた自分を悩ませることを恐れた。
 「リョウ君、何でもあげる…。リョウ君には何でもあげる…。」

 良の苦悩174 通算804
 「責任を感じなくてもいい。わたし初めてじゃないし…。昔のイヤな想い出を消して欲しい…。」
 良の腕の中で囁(ささや)き続ける美紀。それは良が去って行くのではないかという不安と、良の確かな気持ちを得たいという願いであろうか。
 その声は天使の声のようであり、新たな苦しみを与える悪魔の声のようでもあった。
  たった一つの行為が新たな業(ごう)を生み、その業(ごう)がさらに業(ごう)を生む。

 良の苦悩175 通算805
 人は業(ごう)の連鎖の中で生きているのであろうか。ふと、優しそうに彼を見つめる母の姿が目に浮かんだ。
 「リョウ君、人に迷惑をかけてはダメよ。」
 「リョウ君、男の値打ちはお金の出し方にあるのよ。お金を出すときはすっと出すのよ。」
 「リョウ君、悪者の家というのがあってね。どんな悪者が住んでいるか恐る恐る見に行った人がいるの。すると、その家で何かが起きたとき、『私が悪かった』『私が悪かった』と、そのお家の人はみんな自分が悪かったと言うの。だから悪者の家」
 夢の中でも母は良に繰り返した。 それは何度も何度も子守唄変わりに聞かされた言葉だった。


    
美津子と想い出の店で 「和風居酒屋 参萬両」

 良の苦悩176 通算806
 「リョウ。」「うん?」
 「あの日眠れなかったわ、わたし。」「どうして?」
 「だって、リョウはわたしを抱いてくれなかったじゃない。家に帰って悶々(もんもん)と過ごしたのよ。」
 良との距離がそう言わせるのか、それとも年齢がそう言わせるのだろうか、さりげなく良に言う美津子だった。
 彼らは学生時代に良く通った「参萬両」に来ていた。サラリーマンのお客の多い店では、特に美津子の上品さは際立った。

良の苦悩177 通算807
 一目で彼女がお金持ちの奥さんだと判別できるだろう。
 「どうしたの?今日はお二人で…。」ママが訝(いぶか)った。
 「リョウにお願いしたの。こんな日が来るとは夢にも思わなかった。」学生時代によく座ったカウンター席に腰を下ろした。
 「懐かしいわ、リョウとこの店で遅くまで語ったわ。ねぇ、リョウ。」「うん。」
 「リョウは昔のまま。わたしは変わったわ。おばさんになっちゃった。でも、気持ちはあの頃と何も変わっていないの。」

 良の苦悩178 通算808
 「この二十年間がまるで夢によう…。」遠くを見つめる目になった。良にとっても思いは同じであった。参萬両が閉店時間になるまで語り尽くしたものだ。しかし、その内容の記憶はなかった。
 「今でも胸がときめくの。リョウに似た人にすれ違っただけで…。」
 「俺だって…。」 ママとマスターはわざと座敷のお客さんのところで話しこんでいた。
 「リョウ、口を開けて。はい、ア〜ンして。」
 「恥ずかしいじゃないか。ママに見られる。」

 良の苦悩179 通算809
 学生時代に美津子にねだったものだった。恥ずかしそうに良に食べさせた美津子。透き通る肌は昔のままで、色香が増した美津子。そのうなじに妖艶(ようえん)さを漂わせていた。
 「今日はラフな格好で来たのよ。学生時代と同じように…。」 彼女の服装に初めて気づいた。
 「気付かなかったよ。まったく…。」
 「リョウは相変わらず鈍感。学生の気持ちに戻ったつもりでいるのにぃ…。」

 良の苦悩180 通算810
 「ミツコの匂い。」彼はうなじに顔を少し近付けた。
 「リョウのバカ。」 甘えた声も二十年前と同じであった。
 「リョウ、考えてくれたの?」「ああ、でも…。」
 「な〜に?」 「どうしたらいいか分からない。」
 「…リョウはそう言うと思ったわ…。」美津子はその答えを予想していたのだろうか。
 「今度こそ一緒に生きていけるチャンスなのに…。リョウは結論の先送り…。何も捨てられないリョウ…。」

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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