連載小説 追憶の旅     「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

   
(本文) フランス料理「右京」

 良の苦悩231 通算861
  前菜は一口大の小さいものが五種類で、それらは常に新鮮な素材で作られていた。ホール担当の奥さんは手を抜くことなくいつも丁寧に説明した。
 「奥さん?あの人。」
 「そうだよ。何か?」
 「キレイな人ね。」二人は口を揃えた。
 「自分たちより下だと思っているんだろう?」
 「相変わらずデリカシーのないオジサンだこと。」
 「美紀!」「いいの、しっかり教えてあげておかないと、どこに行っても出るから…。」美紀はケロッとしている。

 良の苦悩232 通算862
 「パンは食べ放題だから、君たちにはちょうどいい。」
 「またぁ、このオジサンは乙女心を傷つける、腹が立つわ。ねぇ、恵理。」笑いを押さえていた恵理もゲラゲラ笑った。 美紀がわざと言っているのは分かった。
 「二人に話がある…」良の言葉で湿りがちな空気を変えようとしていたのだ。豊かな家庭に育ちながらも、喧嘩が絶えない両親の中で、必死に弟を守ろうとする環境から来ているのだろう。

 良の苦悩233 通算863
 魚料理はサケのオリーブソースであった。ハーブの香りとオリーブオイルが調和していた。しかし、何といってもネタの良さと、その焼き方であった。厚みもなく新鮮でないサケには、自然の持つ特有の旨みが失せている。
 やはり料理の基本はいいネタである。シェフの料理の真骨頂はそこにある。それにバターを使う量を少なめにしている。
 クラシックなこってりした料理でなく、切れ味のいいフランス料理であった。

 良の苦悩234 通算864
 「あっさりしたフランス料理なのね。篠崎と同じような…。」二人とも記憶が良いのだろう、その料理の特色を舌が記憶している。
 「意外に君たちは記憶がいいんだ。」
 「それは少し言い過ぎでしょ。」恵理も遠慮がなかった。
 「いくら美味しいものをご馳走しても、記憶の悪い部下はイヤになるからね。仕事と同じで味覚も積み上げて発達するから。」
 「そうよ。まったくそうよ。」二人は頷(うなず)いた。

 良の苦悩235 通算865
 「何度教えても覚えられない人もいるから…。食事までそうとは思わなかった。」二人とも思い当たる節があるのだろう、その話で盛り上がった。
 「表面がパリッとしていて、中は柔らか〜い。」
 「それがシェフの腕の見せ所だ。わたしはそれが好きでこの店に通っている。」
 「でも、部長の一番の基準は人柄でしょ。わたし、いつも部長の傍(そば)にいるから良くわかります。取引先でも人柄を重視していますから。」

 良の苦悩236 通算866
 直接の部下で、しかも良の席のすぐ近くで働いている恵理を羨(うらや)ましそうであった。
 「恵理、わたし焼くよ。恵理にヤキモチを焼くよ。」美紀は遠慮しなかった。
 「ごめん、美紀。でもホントよ。」
 「悔しいなぁ、恵理と人事異動で交代してもらえないかなぁ。」
 「イヤよ、美紀は絶対イヤよ。」
 「人事部長に言ってみようかな?」
 「ダメ!花村部長は大の美紀ファンだから…。人事異動になっても席にしがみ付くもん。」

 良の苦悩237 通算867
 二人の会話は冗談と本気が半ば交錯(こうさく)していた。
 「オイオイ、この店の話はどうなった?」
 「忘れていました。」二人は悪びれた様子もなくケロッとしていた。
 「シェフは信頼できる人でね。そのために同性の友達も多い。開店の時には、山のような花とお祝いが届いていた。」
 「そうでしょうね。一目で分かったわ。」美紀の目は鋭かった。
 「わたし、見る目があるの。とんだ食わせ物だったのは部長だけ。」

 良の苦悩238 通算868
 「じゃあ、美紀は降りてくれる?」
 「それは別の話!恋は別だもん。」危うい会話を平気でする二人。
 「二人で組んで俺をからかっているのではないか?」−良に一抹の不信感さえ生まれた。 そう思う反面、二人の間が上手くいっていることへの安心感もあった。良のために二人の間に亀裂が入ることだけは、自分自身が許せなかった。
 「お肉も美味しいじゃない。」味覚の発達した美紀の口にも合っていたようだ。

 良の苦悩239 通算869
 「このお店が部長の隠れ家だったの?」
 「そうだ、君たちに虐(いじめ)められたときには、この店に来て一人で泣いていた。」
 「ウソです!会社では鬼と呼ばれているのにぃ…。泣かされているのは私たちです!」良を身近で見ている恵理も負けていない。
 「わたしの部にも知られているわ、柳原部長は鬼で有名。部下泣かせのヤナちゃんだと…。」
 「誰がそんなことを言っているんだ!」
 「わ・た・し…うふ。言いふらしている。」

 良の苦悩240 通算870
 「君か、わたしの評判を落としているのは。人事部長の花村に『紺野は嘘つきだ』と言っておこうかな?」
 「止めて下さい。花村部長にだけは絶対に言わないで下さい。」二人のやり取りに恵理は笑いを堪(こら)えている。
 「ところで部長、お話というのは何ですか?」今までずっと気になっていたのだろう、恵理が真面目な表情で尋ねた。
 今まで冗談を言っていた美紀も真剣な表情で良を見つめた。

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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