連載小説 追憶の旅     「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

   
(本文) 「美紀の苦悩」

 良の苦悩311 通算941
 離婚したいま、彼が誰と恋愛しようが何の問題もなかった。しかし、どこかに同じ会社の、しかも十七歳も年の離れている美紀との恋愛には後ろめたさがあった。
 さらに恵里への絶ちがたい思いが消えなかった。
 「何をじっと立っているの、リョウ君。早く服を脱いで…。」
 「俺、帰るよ。命令されているばっかりだもの。」
 「ダメよ!帰っちゃダメ!ごめんなさい、でも、リョウ君を見ていると世話が焼きたくなるの。奥さんには何もしてもらってないでしょ。」
 「それはそうだけど…。」

 良の苦悩312 通算942
 「夜の方もでしょ。わたしが代わりにしてあげる、うふ。」まるで年上の世話女房のように振舞う美紀に、良は戸惑うばかりであった。
 二人が結ばれてから、美紀にはどこか自信と余裕が感じられた。彼女自身が言ったように、美津子と対等な立場に立てたからであろうか?
 「あれから、美津子さんと会ったの?」
 「会っている。」
 「エッ!本当ですか?」
 「ああ、ほぼ毎日会っている。会うまいと思っても我慢できないんだ。」

 良の苦悩313 通算943
 美紀は黙って良を見つめた。思いつめたような、潤んだ瞳は良に何かを訴えているようであった。彼は美紀を抱きしめようとした。彼女はわずかな拒絶を示した。
 「…仕方ないわ…リョウ君の…人生そのものだもの…美津子さんは…。」それは彼女のやせ我慢か本心かは理解できなかった。彼は彼女の耳元で囁ささや)いた。
 「美紀、ウソだよ。」
 「バカ!リョウ君のバカ、バカ!言ってもいい冗談と、言ってはいけない冗談があるのよ。」

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 「リョウ君のバカ…。」最後は消え入りそうな語調であった。美紀は大きな瞳に涙を貯めて、良にしがみついた。
 「いつかはリョウ君が去っていくと覚悟はしているの。わたしにかけがいのない思い出をくれただけで幸せ、と自分に言い聞かせているの。」それは良の心に強く響いた。
 一体、俺は何をやっているのだろう。−千晴との再来のような美紀を、あの日とまったく同じように奈落(ならく)の底に落としているのではないか、という慄(おののき)きに震えた。

 良の苦悩315 通算945  
 千晴のすがりつくような表情と美紀とがオーバーラップし、過去と現在がどちらも幻のように感じられた。自分の生きていることさえ幻ではないかと不思議な感覚に襲われた。
  「リョウ君。」「うん?」
 「あなたは何かを恐れていない?」恐ろしいほど敏感な子であった。まるで良の心の中を見抜いているようにも感じた。
 「美紀が命令ばかりするから、悪戯(いたずら)したくなっただけだよ。」
 「…何か違うような…でも、そういうことにしていてあげる…。」

 良の苦悩316 通算946
 「リョウ君、洗ってあげる、いいえ、洗わせて…。」美紀は何かを吹っ切るように、彼の背中を、石鹸をたっぷり含ませたタオルで力を込めて洗った。何かを決意しているようにも思われた。
 「美紀。」「はい。」
 「…何を考えている?全部俺に言って…。」
 「何も考えていません…。なぜ、そう思うの?」
 「美紀の動き一つ一つで分かる。君の悩みが伝わってくる…。」
 「リョウ君は怖い人、リョウ君には何も隠せない…。」

 良の苦悩317 通算947
 「リョウ君には奥さんがいる。その上、忘れられない美津子さんもいる。美津子さんとはセックスもしている…。わたし…そんな人を好きになって…。」
 「自分は何をしているのだろう?思い出だけで…思い出だけで幸せなはずなのに…。自分が救いようのないバカな女に思えて…。」 「…。」
  「でも、どうしようもない自分がいるの。リョウ君の傍(そば)に居たい自分が居るの…。」
 「…。」

 良の苦悩318 通算948
 「たった一人で部屋にいると、このマンションの広さが逆に寂しさを…。」
 「美紀…。」
 「何度も電話をしようとして、携帯を開けたり、閉めたり…。いま、美津子さんとセックスしているかもしれないと妄想もするの…。美津子さんに甘い言葉を囁(ささや)きながら…リョウ君が…。」美紀の涙が彼の身体に落ちた。
 「そんなときは、大声で叫びたいほどの嫉妬を感じるの。わたし…ホントはヤキモチ焼きなの…。耐えているだけ…。」

 良の苦悩319 通算949
 「嫉妬で怒り狂った自分を、リョウ君に曝(さら)け出せたらって思うこともある…。」
 「美紀…。」
 「それだけではないの…。リョウ君は自分の人生に疑問を感じている。すべてを捨てて、どこかに行ってしまうのではないかと…。今の会社はリョウ君が求めている方向とは違っているのも分かっているの。」
 良を背後から抱きしめたまま、美紀は自分の心の内を語った。
 「こうして二人でいるときだけが安心できるの…。」痛いほど切ない美紀の懊悩(おうのう)を初めて垣間かいま)見た思いであった。

 良の苦悩320 通算950
 「俺がいなければいいんだ。すべて俺の存在が周りを苦しめているんだ…。」
 「リョウ君はそういう発想をする人…。言えば言うほど周りから去っていく人…。だから、だから言えなかったの…。リョウ君好き、リョウ君大好き…。奥さんもいて、美津子さんもいて…わたしなど入り込む隙(すき)もないのに…。」
 「美紀、好きだ、大好きだ。その俺が美紀を苦しめている。俺が悪いんだ。」良も涙が止まらなかった。

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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