連載小説 追憶の旅     「第4章  別れのとき」
                                 作:夢野 仲夫

「第4章  別れのとき」

    (本文) 「恵理の初めての経験」

 別れの時176 通算1141
 どこかで聞いたような台詞(せりふ)であった。遠い昔の苦い記憶が呼び覚まされた。
 千晴との地獄のような別れであった。 千晴の化身のような美紀だけでなく、恵里の一部となっているのではないかとさえ感じた。
 「リョウ君、どうして答えてくれないの?わたし、リョウ君が考えているほど弱くないわ。」 「…。」
 「みんなは多くの男の人と遊んでいるけど、わたしはリョウ君と、本当の恋をした思い出を作りたいの。ずっと、ずっとステキな恋の思い出を…。」

 別れの時177 通算1142
 「リョウ君には奥さんもいる。それを知っていて、わたしが勝手に好きになったのだから、決して家庭を壊すようなことはしない。だから、いいでしょう?」
 良には答えられなかった。恵里の一途な思いは受け止められるが、恵里の心を弄(もてあそ)んでいるような罪悪感に苛(さいな)まれていた。
 「君を傷つけているのではないか、という思いが離れないんだ。」
 「違う!それは絶対に違うわ!わたしの人生にかけがいのない思い出をくれているの」 。

 別れの時178 通算1143
 「もう一つお願いがあるの。」
 「まだ、あるの?」
 「ホントにもう一つだけ…。」
 「なに?難しいこと?」
 「難しくはないけど…、でも、リョウ君には難しいかも…。」
 「不安だなぁ。なに?」
 「私たちの関係を絶対に美紀に言わないで。美紀を傷つけたくないの。美紀は自分を抑えているだけ。わたしよりずっと弱い子なの。それをわたしが一番良く知っているの。」
 「…」 。
 「それに…」。

 別れの時179 通算1144
 「それに?」
 「わたしと美紀で話をしたの。リョウ君とセックスしても、お互いに絶対に秘密にしようって。」
 「えっ!」
 「私たちは恋のライバル…でも、リョウ君には奥さんも子どももいる。だから、二人とも恋の敗北者だって、お互いに話し合ったの。でも、それは結婚という社会の仕組みでの敗北者で、恋の敗北者ではないとも…。」
 「もう、止めてくれ!俺は自分がみじめになる。二度と二人ともプライベートな関係は絶つ。」

 別れの時180 通算1145
 「リョウ君、落ち着いて聞いて…。私たちは思い出を作りたいだけ。リョウ君が好きなだけなの。それがいけないことなの?結婚している人を好きになってはいけないの?同じ人を好きになってはいけないの?」
 「理屈はそうだけど…。俺が二人の若い子を騙(だま)していることになるだろう。」
 「リョウ君はわたしと美紀を騙しているの?本当は好きでも何でもないの?二人の体が欲しいだけなの?」
 「それは違う!だけど…。」良は言葉に詰まった。

 別れの時181 通算1146
 「恵里。」「はい。」
 「俺、何もかも分からなくなった。どうしたらいいんだ?」
 「リョウ君は今まで通りでいいの。でも、私にも美紀にも秘密を守って欲しいだけ。美紀が言っていたわ。『リョウ君は正直者だからしゃべるかも』って。」
 「…。」
 「わたしも美紀もヤキモチ焼きなの。それを口に出さないだけ。だから、わたしも聞きたくない。」
 「美紀は一生の友達、かけがいのない友達。同じ人を好きになるなんて、夢にも思わなかった…。」

 別れの時182 通算1147
 人が人を好きになるとは何であろうか?社会には掟(おきて)があり、その掟に縛られて生きている。
 かつては、遠路はるばる来た客に、妻を抱かせる風習があった地域もある。
 セックスとは人にとって何であろうか?時間的にも空間的にも、変わらぬ規範は存在するのであろうか?
 −良の頭の中は混乱していた。
 「リョウ君…。」耳元で恵理が甘えた声で呼びかけた。
 「わたし、リョウが好き…。リョウ君はわたしを好き…?」

 別れの時183 通算1148
 「好きだよ、恵理。」
 「うれしいっ!お手紙何度も読んだの。リョウ君が眠っている間に…。その度に涙が流れるの。」「…。」
 「リョウ君、聞いてもいい?」「なに?」
 「わたしはリョウ君が好き。リョウ君もわたしを好き。それ以上に欲しい物がリョウ君にはあるの?」恵理の素朴な質問に良は戸惑いを隠せなかった。
 「俺は何を求めているのだろうか?人生の転機とは何を意味するのだろう?」−良はますます自分が分からなくなっていきそうであった。

 別れの時184 通算1149
 「美津子さんも美紀もわたしも手に入れて、その後すべてを捨てて…会社も…新しい人生に進む…。リョウ君…それがあなたの理想なの?」
 「…。」
 「それとも私たちとは…体の関係もなく…すべてを捨てて生きる…奥さんも子ども…それがリョウ君の最高の人生なの…?」
 「…。」
 「リョウ君、生意気なことを言ってごめんなさい。でも…、新しい人生に進んでも、またそこにしがらみが生まれるだけじゃない…」。
 「…。」

 別れの時185 通算1150
 良には返す言葉がなかった。まさにその通りなのだ。自分の中に存在する、何かを求める衝動(しょうどう)は一体何であろうか?現実逃避の合理化ではないのか?−親子ほど違う恵理の指摘に、良は戸惑うばかりであった。
 「人は何処(いずこ)に赴(おもむ)くことができる。しかし、何処(いずこ)に赴(おもむ)こうとも自分よりかわいきものはなし」−聖人の言葉がふと浮かんだ。
 「リョウ君好きよ。」−恵理が良を抱きしめた。

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       第4章 別れのとき(BN)
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