連載小説 追憶の旅     「第5章  新たな出発」
                                 作:夢野 仲夫

「第5章  新たな出発」

    
(本文) 恵理の引っ越し「おでん屋 志乃」

 新たな出発01 通算1281
 週末、良は残業を終えて帰宅しようとしていた。部屋には恵理と良だけだった。
 「部長、大変お世話になりました。わたしは近日中に引っ越しすることになりました。」それは突然の出来事だった。
 「エッ、どういうことだ。鈴木君、何かあったのか?」
 「母がたの祖父が倒れたので、母がその面倒を見なければならなくなりました。そのため父母がそちらに行きます。わたし一人でこちらに居てもいいのですが…。」

 新たな出発02 通算1282
 「知らない土地で、しかも血のつながりのないのは父だけです。そんな父がかわいそうで…しばらくの間行くことに決めました。いずれこちらに帰るのですが…。」
 「人事部には、もう言ったのか?」
 「はい。人事部の花村部長の計らいで、そちらの支店に人事異動にして頂きました。近日中に部長にも連絡があると思います。その前に部長には伝えようと思って…。」 言いながら恵理は涙目になっていた。
 「そうか…。決まったことなのか…。」 最近、恵理が何となく暗い表情の日が多かった。

 新たな出発03 通算1283
 美紀との関係にのめり込んでいた良は、後ろめたさもあって知らない素振りを通していた。
 「そうか…。」 「相談もなくごめんなさい…。」
 「…君がいなくなるのか…。」良はじっと恵理を見据えた。
 「わたしから去って行くのか…。」 「ごめんなさい…父を…。」
 「そうだよな…。君は優しい子だからな…。」「…。」
 「どこかでゆっくり話そう。どこへ行きたい?」「志乃に行きたい…。」
 「分かった…。君もわたしから…。」

 新たな出発04 通算1284
 「悲しいことを言わないで…。部長…。」 
 これ以上話せば泣き出してしまいそうな恵里に「さぁ、出よう。」と促した。裏通りに入ると恵里はいつものように腕を組んだ。
 「ホントは行きたくない…。リョウ君の顔を毎日見たい…。」「恵里…。」 立ち止まった二人は軽く唇を合わせた。
 「いつもの明るい恵里を見たいな。恵里の笑顔が好きだから…。」努めて明るく振舞おうとした。
 だが、恵里が去る現実に直面して、恵里がかけがいのない存在であることを良は始めて分かった。

 新たな出発05 通算1285
 「いらっしゃい。」ママが明るい声で出迎えた。しかし、いつもと違う二人の雰囲気に何か感じたようだった。客はちょうど途切れていた。
 「ママ、これが最後になるかもしれません。」
 「どうしたの、恵里ちゃん?」 恵里は今までの経緯を話した。
 「恵里ちゃんと折角親しくなったのに…。部長さんも残念でしょう?」
 「最高のアシスタントを失うことになる。しかし、仕方がない。いつかは彼女も結婚して去るだろうから…。」
 二人は久しぶりに志乃のおでんを口にした。

 新たな出発06 通算1286
 ダシはまるで水のように薄くしかも透明であった。
 「恵里ちゃん。しっかり食べてね」。 「はい。でも…今日は…あまり入りそうになくて…」
 「そう…。無理をしないでね。それより…好きな人といい思い出をいっぱい作っておくのよ。あのとき『ああすれば良かった、こうすればよかった』と思っても、その時は遅いから。」
 「ありがとう、ママ…。そうします。」恵里は声を上げて泣いた。
 「ママも色んな経験があるわ。憎んで別れたり、好きで別れたり、いつの間にか別れていたり…。」ママは母親が諭すように恵里に語りかけた。

 新たな出発07 通算1287
 「好きで別れるのは辛かったわ…。でも、仕方のない事情だってある。今でもその人のことを思い浮かべるだけで切なくなるときがあるの。こんなわたしでも…。」
 「…ママ…。」
 「部長さんだって経験あるでしょ。」二十年前の美津子との切ない別れが、まるで昨日のように鮮明に浮かんだ。
 「…。」
 「喧嘩別れが後腐れないけど…。恵里ちゃんにはきっと無理ね…。とっても優しい子だから…。」

 新たな出発08 通算1288
 「好きな人は、恵里ちゃんのこと大切にしてくれたの?」
 「はい、とても大切にしてくれました。それに…」
 「それに?」
 「それに長い手紙を書いてくれました。メールでは決して伝わらない、心のこもった手書きの手紙でした。」
 「嬉しかったんだ。」
 「はい。毎日、ベッドで読んでいます。わたしの宝物です。」泣きながら話す恵里。
 「そうなんだ。恵里ちゃん。」 「はい。」
 「別れの日には絶対に泣いてはダメよ。」

 新たな出発09 通算1289
 「なぜですか?」
 「その人も辛いから…。きっと心の中では『行かないでくれ』と叫んでいるわ。」 その言葉に恵里は再び声を上げて泣いた。
 「泣かないで、恵里ちゃん。部長さんも最後の最後まで大切にしてあげてね。」 すべてお見通しであった。
 「分かっています。」良にはそれ以上の言葉が出なかった。
 「鈴木君、ビールを注いで。」
 「ごめんなさい、忘れていました。」

 新たな出発10 通算1290
 良のコップに丁寧に注いだ。もう、これが最後になるかも知れないとの思いが込められているようであった。
 「君に注いで貰ったビールの味は格別だ。」半ば茶化しながら、その瞳には涙が滲んでいた。
 「わたし、今日は酔っ払ってもいいですか?」
 「ダメよ、恵里ちゃん。いつもと同じように飲んでね。好きな人が悲しむわ…。好きな人に心配かけてはダメ!」 ママは良の代弁をしてくれた。

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       第4章 別れのとき(BN)
 (0965〜) 親友花村部長と4人で「寿司屋 瀬戸」
 (0986〜) 恵理の葛藤
 (0996〜) レイクサイドホテル
 (1031〜) 美津子との距離
 (1046〜) 美紀のマンションで
 (1066〜) 恵理との小旅行
 (1083〜) 「日本料理 池田」
 (1094〜) 「恵理へのラブレター」
 (1111〜) 「恵理の初めての経験」
 (1176〜) 美津子の秘密「和風居酒屋 参萬両」
 (1196〜)  美紀への傾倒
 (1221〜)  最後のメール
 (1255〜) 江戸蕎麦「悠々庵」

       
 第5章 新たな出発(BN)
 (1281〜) 恵理の引っ越し「おでん屋 志乃」

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