連載小説 追憶の旅     「第5章  新たな出発」
                                 作:夢野 仲夫


「第5章  新たな出発」

    
(本文) 恵理の新天地

 新たな出発101 通算1381
 「恵理はオシャベリね。言わなくてもいいことまでリョウ君に言うからよ。イメージダウンになったじゃないの。恵理のせいよ。」 父親は苦虫を噛み潰した表情を浮かべた。
 「リョウ君、わたしの打った蕎麦を食べてくれるかね?」「ぜひ。」
 「じゃあ、茹でて来るからしばらく待って…なに、十分もかからないから…。」
 「茹でるのを私にも見せて下さい。」
 「じゃ、こちらへ。」二人は台所に向かった。

 新たな出発102 通算1382
 「蕎麦通と聞いているので、少しやり難いな。なにぶん、最近習い始めたばかりでね。」大きな鍋で湯を沸かしながら父親が不安そうに言った。 父親が打った蕎麦は三番粉を使った本格的なものであった。
 「太さがまだ揃わなくてね。蕎麦切りは想像以上に難しいよ。」
 「ところで、リョウ君…。」「はい。」
 「恵理は大人しそうに見えて、母親と同じでねぇ。芯は強いよ。分かっているかね?間違いなく君も尻に敷かれるぞ。」

 新たな出発103 通算1383
 「お父さん、本当に弱い女性というのはこの世の中にいるんですかねぇ?私は今までに一度もそういう女性に会ったことがありません。」
 「君は面白いことを言うね。言われればその通りだ。まさに的を射ている。私も長い間生きているが、確かに会ったことはない。ハッ、ハッ、ハッ、君は愉快な男だ。ハッ、ハッ、ハッ」
 二人は大声で笑った。
 「何が可笑しいの?」恵理と母親が入ってきた。

 新たな出発104 通算1384
 「何でもありません。ねぇ、お父さん。」
 「何でもない、何でもない。」
 「男二人で何か悪だくみを…。」
 「そんなことありません。」男二人は目で合図した。
 「男二人が寄るとロクな話をしないから…。恵理も気つけなさいよ。」母親の言葉に、二人は笑い転げた。
 「早く蕎麦を食べさせてね…。」女二人が台所を去ると、父親は小声で、
「君はいい。君は話がわかる。私は何十年も女二人に虐げられてきた。」

 新たな出発105 通算1385
 「これからは男二人でタッグを組もう。」堅物と思っていた父親の言葉に、上手くやれると確信した良であった。
 「どうかね、リョウ君。私の蕎麦は?」
 「はい、率直に言わせて頂いていいですか?」
 「しっかり言ってくれ。」
 「確かに美味しい蕎麦ですが、お父さんもおっしゃったように、麺の不揃いが気になります。小麦粉の割合を少し増やして練習するのも一つの方法ではないでしょうか。

 新たな出発106 通算1386
 「それから返しの醤油の割合を増やしてはどうでしょうか?」
 「う〜ん。」
 「それに…。」
 「まだ、あるのか?」
 「ネギをほんの少しだけ、今までより長く水にさらした方が蕎麦の香りが生きると思います。」
 「う〜ん」
 「もうひとつだけ…。これは好みですが、大根は蕎麦を食べるときには無い方がいいと思います。大根で蕎麦のほんのりした香りが負けるような気がします。私はざる蕎麦には大根を入れません。そば湯のときに入れます。」

 新たな出発107 通算1387
 「パパ、言われたわね。」母親が面白そうに微笑んでいる。
 「私が言ったとおりでしょう。リョウ君は蕎麦通だって…。それにお世辞は言わないって…。」
 「う〜ん、聞きしに勝る蕎麦通だ…。私が気になっていることを全部指摘された。周りは美味しいしか言ってくれないから天狗になっていた…。う〜ん。」
 「済みません、許して下さい。口が過ぎました。」
 「イヤイヤ、私は本当のことが聞きたかった。逆にお礼を言いたい…。ほんの少し傷ついたがね。」

 新たな出発109 通算1389
 家族の会話を聞きながら、退職する後の地獄を思い浮かべていた。すべては今の仕事を続けるという前提での話であった。彼が退職して新しい就職口を見つけるとなると、すべては白紙に戻るだろうとの不安があった。そのために新しい仕事が決まってから両親に話そうと思っていた。
 恵理の家族の歓迎は、まるで砂の上に建てられた楼閣のようであった。良自身の小さなプライドがすべてを失うかもしれないとの恐怖を感じていた。

 新たな出発110 通算1390
 「恵理、リョウ君は疲れているだろうから、そろそろシャワーを浴びてもらって。今夜は恵理の部屋を使ってもらいなさい。」
 「エッ、ママ?」
 「恵理も色々お話したいでしょ。」それがさも当然のような口調であった。
 「まだ、結婚してないから、それはいかん。」堅物の父は慌てて否定した。
 「何、言ってるのよ。パパは私との婚約が調った時のことを忘れたの。毎日、私に迫ったじゃないの。」
 「恵理の前で…。」父親は苦虫を噛み潰したような表情だった。

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 第5章 新たな出発(BN)
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