連載小説 追憶の旅  「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

 良の苦悩91 通算721  
 彼は湯船に美津子を誘った。一つ一つの動きに、二十年前とは明らかに違うものを感じた。
 それは彼だけでなく美津子も同じだったろう。 左手で肩を抱きながら右手と唇は彼女の胸をまさぐった。
 「ア〜ン」狭い浴室に美津子の歓びの声が響いた。彼の手が下半身に延びると、より触れやすいように身体を開いた。その動きの一つ一つに性を知った女をみる思いだった。
 いや、それだけでなく、彼の抱いている弥勒菩薩の美津子とは少し異質なものを感じるのだった。

 良の苦悩92 通算722  
 良の身体は激しく美津子を求めていた。しかし、右手に彼女の身体の強いぬめりを感じながらも心は萎(な)えつつあった。
 今まで一度も抱いたことのない美津子への不信感であった。
 「リョウ、どうしたの?心が入っていないみたいね…。」  美津子も彼の微妙な心の動きを察したようであった。
 「何か君が遠いところに行ってしまったような気がしてならない。」
 「わたしはリョウの傍(そば)にいるわ。ここに居るのよ、リョウ。」

 良の苦悩93 通算723
 「分かっている、それは分かっている。」 不安を募らせたのだろう、美津子は良を抱きしめた。
 「アメリカには行きたくないの…わたし、リョウの居ないところで生きていたくない…。」
 あくまで白い妖艶(ようえん)な肌が良を求めていた。四十歳を過ぎているとは思えない美津子の肌は、きめ細かく弛(たる)みもなかった。
 「まるで奇跡だ…君の肌…。見ているだけでうっとりする…。あの頃よりもずっと魅力的だ…。」

 良の苦悩94 通算724
 「ホント?リョウがガッカリするかもしれないって心配していたのよ…。」 少女のように喜ぶ表情は昔の美津子そのものであった。
 「ミツコ。」 「はい」
 「俺だって、俺だって言いたい、アメリカに行かないでくれって…。君の白い肌、君の唇、俺を受け入れた君の身体、それに君のかわいい声…、俺はすべて俺のものにしたい…。君の主人の前で、俺のものだ!と叫びたい…。でも…。」
 「でも?」

 良の苦悩95 通算725
 「何かが俺を押しとどめさせる…。ミツコ…。」 「はい。」
 「教えて、それは何なんだ?」
 「あなたにも分からないものが…わたしにだって分からないわ…。」  良の頭の中は混乱していた。
 ふと、涙を流す恵理と天真爛漫(てんしんらんまん)に彼を翻弄(ほんろう)する美紀が浮かんだ。
 「ダメよ、リョウ君。」 二人は口を揃(そろ)えて言っているようであった。
 「リョウは疲れているの。そんな疲れたリョウは見たことがないわ。」

 良の苦悩96 通算726
 「主人の赴任まで時間はあるわ。」 
 「どれくらい?」
 「半年くらい。上司に打診(だしん)されたみたい。ことわることもできるそうだけど…。」  彼らはベッドで戯(たわむ)れた。まるで二十年前と同じように。
 だが、彼は決して最後の一線を越えることは無かった。
 「わたしを欲しくないのね、リョウ…。」
 「違う!君を奪ってしまいたい。しかし…。」
 「しかし?」
 「俺はミツコの虜(とりこ)になってしまう。何年も何年も…君の幻影を…追い続けた俺だから…。」
 「リョウ!わたしをそんなにまで…。」

 良の苦悩97 通算727
 二人は涙を流し続けた。
 「ミツコ。」 「はい。」
 「…俺は君の奴隷…愛の奴隷…。」
 「リョウ、わたしだって…。でも…」 「でも?」
 「リョウがわたしから遠ざかって行きそうで…。」  美津子も何かを感じていた。
 関係があった二人がラブホテルにまで入って、肉体関係を持たないことから来たのかもしれない。
 それとも彼女自身の理由から生じたものかもしれない。 美津子も表現のできない微(かす)かな不安−忍び寄る別れが来るかもしれない不安−が生じていたようであった。

 良の苦悩98 通算728
 帰りの車の中には微妙な空気が漂っていた。大切な何かが、すれ違ったような感覚に二人は包まれていた。
 「リョウは女心を知らない…。」 
 「エッ。」 美津子は良の横顔を見詰めた。
 「セックスしないことが思いやりだと思っているのね…。」
 「…。」
 「わたしには夫がいて、リョウには奥さんがいる。だから…しなかったのね…。」
 「でも…それは思いやりじゃない…。絶対に優しさじゃない!」
 「…。」

 良の苦悩99 通算729
 「昔とちっとも変ってないのね、リョウ…。リョウは常に何かに脅(おび)えている。失うことを恐れているような…。一つを得れば幾つも失うこともあるわ…。」
 「物に執着のないリョウなのに…。人には異常なほどの執着心を持っている…。」
 「…。」
 「奥さんを失うのが恐いの?リョウ。それとも他に失いたくない人が居るの?」
 「わからない…。俺には分からない…。」

 良の苦悩100 通算730
 「一途さも過ぎると、それが仇(あだ)となって、すべてを失うかもしれないわ。」
 「でも、そんなリョウが好きなの。そんな人、今まで居なかった。わたしの周りに一人も居なかった。リョウ!わたしを…わたしを…。」
 「…ミツコ、好きだ、君が大好きだ!だけど何かが俺を引きとめる。二十年前に君を両親から奪えば良かったんだ!そうすれば俺もミツコも…こんなに悩むことはなかった。」
 良は涙が止まらなかった。
 「泣かないで、リョウ、わたしの、わたしの大好きなリョウ…。」

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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