連載小説 追憶の旅     「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

    
美紀の弟・正一郎との出会い 「イタリア料理・ローマ」
 
 良の苦悩161 通算791
 食事を終えた正一郎は自宅に帰った。
 「分からないところがあったら、また教えていただけますか?今日は本当にありがとうございました。」良へのお礼も忘れなかった。
 「いい弟さんだねぇ。明るくて純粋で聡明で。」
 「弟があんなに明るい表情をしていたのを久しぶりに見ました。本当に嬉しかったようです。」
 「問題ができる歓びを知ったからかな?」
 「それもあると思いますが…。部長と気が合ったみたい。」

 良の苦悩162 通算792
 「リョウ君、ありがとう。母がプレッシャーをかけるから、あの子は悩んでいるの。」 「お父さんの後継(あとつぎ)だから期待が大きいだろうねぇ。」
 「そうみたい…。」
 「ショウ君が幼い頃、父の会社が厳しくて母も手伝っていたけど…。七、八年前からは順調で母は自由気ままに生きているの。恥ずかしい話だけど…。」
 「余裕が生まれたんだね。いいことじゃないか。」
 「それはいいの。でも、クタクタに疲れた父に文句ばっかり言っているわ。」

 良の苦悩163 通算793
 「何に不満があるのかなぁ?」「わたしにもわからない…。ショウ君のことが大きいんじゃない。」
 「有名私立中学に入れたかったと思うわ。父はそれに反対で…。『無理をさせると子どもをつぶす』と何度も言い聞かせていたけど…」
 「世間にはそういうタイプの母親が多いようだねぇ。自分のことは棚にあげて。」
 「そうみたい。わたしの母はショウちゃんが少し出来がいいので、余計に思っているのでしょう。」

 良の苦悩164 通算794
 「リョウ君…。」二人きりになった部屋には微妙な空気が流れていた。世間話をしながら美紀の心はここにあらずのようであった。
 「リョウ君は仕事で忙しいのに、弟の勉強まで見て貰って…。」そう言いながらソファから立ち上がり良の隣に座った。
 「恵理に聞いたの。リョウ君は物思いにふけっているって…。」二人の友情が続いていることに安堵(あんど)した。

 良の苦悩165 通算795
 「わたしに…わたしに…。」美紀は良にもたれかかった。彼が何を悩んでいるのか、自分に話してもらえない寂しさと、得体(えたい)のしれない不安が襲っているようであった。
 「自分自身にも分からない不安なんだ。今までの自分の生きざまへの疑問が湧いて…。」
 「どんな?」ぐったりと彼に身体を寄せながら、母のような優しさがあった。
 「仕事、人間関係…、自分を取り巻くしがらみ…。それらをすべて白紙に戻したい…。そういう衝動(しょうどう)にかられている。」

 良の苦悩166 通算796
 「えっ!」美紀はグッタリと良に寄せていた身体を起こした。
 「すべてのしがらみを白紙に戻したい、って?会社も…わたしも?…。」美紀は動揺を隠せず、思わず良を凝視(ぎょうし)した。
 「わたしが二十代の頃、中年のパートさんがよく言っていた。『わたしの人生はこれでおわるのだろうか?』を、最近盛んに思いだしてねぇ…」
 「当時は何のことかさっぱり分からなかった。」美紀は黙っていた。

 良の苦悩167 通算797
 「今から考えると、彼女たちの気持ちが良く分かる…。」「…。」
 「女として、人間として、最後の花火を上げたかったのではないだろうか?体力とか容姿の衰えを実感しつつあったのだろう。」「…。」
 「わたしはまだ体力には自信がある。もちろん、若い人には及ばないがね…。しかし、男としてこの世に生れて、このままで一生を終えるのか、俺は何のために生きているのか?そういう疑問が押さえても、押さえても…。」「…。」

 良の苦悩168 通算798
 「美津子さんと何かあったのですか?」
 「なぜ、そう思う?」
 「だって、リョウ君の…リョウ君の…行きつくところは…いつも美津子さん…。」静かな部屋に美紀の忍び泣きが漏(も)れた。
 「ミツコのご主人がアメリカに転勤するそうだ。」
 「…美津子さんはどうするの?」 「悩んでいるようだ。」
 「…美津子さんは、…リョウ君に…行くなと言って欲しいんでしょ…。」 美紀はすべてを悟っていた。

 良の苦悩169 通算799
 「ああ、全部捨てるって…。」
 「イヤイヤ、わたし絶対にイヤ!」美紀は取り乱した。
 「リョウ君をどこまで苦しめるの、美津子さんは…。リョウ君がダメになる。リョウ君が…。」後は言葉にならなかった。あの耐える美紀が声をあげて泣いた。
 「美紀、それは違う!」「何が違うの?」
 「彼女はきっかけに過ぎない。わたしの悩みはもっと深いんだ。」
 「違わない…。美津子さんがリョウ君をダメにしている…。」

 良の苦悩170 通算800
 「ミツコも会社も全部捨てて、人生をリセットしたいと思うことが多くなった…。」
 「美津子さんも?」
 「ああ、誰も自分を知らないところで、まったく新しい人生を送りたいという願望が生まれては消えている…。」
 「それなら…わたしを連れて行って下さい…。リョウ君とならどこへでも…どこへでも行く…。」
 「嬉しいが、そんなことを安易に口に出してはいけない。」
 「だって、リョウ君が…。」彼は美紀を抱きしめた。

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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