連載小説 追憶の旅     「第3章  良の苦悩」
                                 作:夢野 仲夫

   
(本文) フランス料理「右京」

 良の苦悩241 通算871  
 「そのことはここでは…。後で話す。」いつになく真剣な良の表情に彼らは何かを感じたようであった。
 デザートとコーヒーを終えようとした頃を見計らってシェフが挨拶に来た。 二人はシェフの料理を賞賛した。しかし、良の話が気になるのか、そわそわした様子が伺えた。
 挨拶も早々に彼らは「右京」を出て、近くのホテルのラウンジに入った。
 「部長、美津子さんのことですね。」単刀直入な美紀であった。

 良の苦悩242 通算872
 良は黙って頷(うなず)くしかなかった。
 「美津子さんと何かあったの?」恵里は不安を隠せないようだった。
 「君たちには本当のことを言うしかない…俺はダメな人間だ…」
 「何があったか、教えてください。」恵里は真実を知りたがった。
 「恵里!止めなさい。男と女よ。何があったか分かるでしょう。それとも恵里は部長に『セックスした』と言わせたいの。」
 「部長、ホントですか?そんなことないですよね。絶対ないですよね。」

 良の苦悩243 通算873
 「恵里!焼けぽっくいに火がついたのよ。」
 「そんなぁ…。」恵里は黙った。頭の中が錯乱しているようであった。信じていた者に裏切られた、悲しさとも怒りともつかない感情が、その胸中に渦巻いているようであった。良を見る目にそれが表れていた。
 「申し訳ない。俺は…どうしてもミツコから抜け出せない…。」良はその厳しい視線に、己の弱さを責めずにはいられなかった。

 良の苦悩244 通算874
 「いずれ別れるわ、美津子さんと…。」美紀は独り言のように呟(つぶや)いた。恵里は美紀を見た。
 「美紀、なぜあなたは平然としていられるの?」
 「平然としていない…。動揺しているわ。でも、男と女は何があっても不思議ではないでしょう…。」
 「部長が選んだ道だから…。私たちがとやかく言うことはできないでしょ。」
 「美紀…わたしは…わたしは…美紀のようには考えられない…。」

 良の苦悩245 通算875
 「恵里、大丈夫よ。部長と美津子さんは、いずれ別れることになるから…。」
 「なぜ…なぜ、そう思うの?」
 「昔からずっと愛し合った男女は、お互いにお互いを美化しているのよ。あなただって、昔好きだった人のことを、その当時よりずっと美化してない?」「…。」
 「いずれそれに気が付くと思うよ。美津子さんは、女の私から見ても惚れ惚れするようないい女だけど、人間である限り…。美津子さんは弥勒菩薩じゃない…。」

 良の苦悩246 通算876
 恵里は大きな瞳に涙を貯めていた。涙を拭いもせず、その瞳で良を恨めしそうに見つめていた。良は視線が痛かった。しかし、彼には言い訳のしようもなかった。
 「恵里、大丈夫!絶対大丈夫!」美紀は自分に言い聞かせているのだろうか、涙を見せなかった。
 「君たちに会わせる顔がない…。」良はひたすら謝るだけだった。
 「部長も男だもの、美津子さんとセックスくらいするでしょ…。」

 良の苦悩247 通算877
 「わたし、先に帰ります…。」その場に居づらくなったのか、恵里が立ち上がった。
 「部長、恵里を送って…、心配だから。」どうしていいかオロオロしている良に半ば命じるようであった。
 「結構です、一人で帰ります。」断る恵里であったが、美紀は良に目で合図した。 何度も断る恵里の後ろを良は歩いた。いつしか二人はいつもの公園の近くにいた。  「部長、好きなの?美津子さんのこと…。」振り返った恵里は泣いていた。

 良の苦悩248 通算878
 「部長を…部長を…責めたくないと思っても…。」後は言葉にならなかった。
 「恵里、俺はダメな男だから…。」良も自分の節操の無さを責めないわけにはいかなかった。 彼の目からも涙が溢れた。
 「恵里、全部忘れて…。俺のことなんて全部忘れて…。」
 「イヤ!忘れられない。リョウ君のこと忘れられない。見てもらえない手紙を書いていたリョウ君…。美津子さんへの気持ちは分かっていたはずなのに…。」

 良の苦悩249 通算879
 「リョウ君の気持ちは…わたしが…わたしが…一番分かっていたはずなのに…。」彼女の目からは大粒の涙が流れて止まなかった。
 「わたし、リョウ君のこと好き…。でも、どこかでリョウ君を許せない自分がいるの…。」
 「わたしより、ずっと前から愛し合っていた二人…。それを知っていて、リョウ君を勝手に好きになったわたしなのに…。」恵里は自分自身の心の中の矛盾と葛藤(かっとう)しているようであった。

 良の苦悩250 通算880
 「ごめんな、恵里。俺が悪いんだ。恵里は何も悪くない。」彼は恵里をハグしようとした。 
 「イヤ!」恵里は身体をこわばらせ、強く拒絶した。
 「もう少しだけ家の近くまで送るから。」ハグを諦めた良は歩き出した。 そのとき突然、恵里は良を後ろから抱きしめた。
 「リョウ君好き…リョウ君大好き…。でも、何かがリョウ君を拒むの…。何かがリョウ君を責めているの…。リョウ君を許せないわたしがいるの…。」男を知らない恵里の潔癖感であったのだろうか。
 時折浮かんでは消えるたおやかな恵里との生活が、脳裏からスッと消えてしまうような感覚にとらわれた。。

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

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