連載小説 追憶の旅     「第4章 別れのとき」
                                 作:夢野 仲夫


  
 (本文) 「レイクサイドホテル」
 
 別れの時46 通算1011
 決して戻ることのない二十年も前の過去を二人は思い浮かべていた。
 「リョウ、わたしリョウとやり直したい。子どもも主人も捨てるわ。」
 「ミツコ。」
 「あなたを毎朝わたしが起こすの。眠たがっているリョウを…。リョウが仕事に行くと、わたしはグルメのリョウのために夕食を一生懸命作るわ。リョウの喜ぶ顔を思い浮かべながら…。」
 「ミツコ…。」
 「あなたが帰って来ると、走って出迎えるの。」

 別れの時47 通算1012
 「それでね、玄関で抱きしめるの。その後はね、わたしが身体を隅々まで洗ってあげるの。」
 まるで熱にうなされたように、美津子は語った。あの日と同じように、どこかで別れを意識しているのだろうか?それとも、今すぐにでも実現可能な現実と思っているのであろうか?
 二十年前の出来事と今の出来事がオーバーラックした。 離婚したいま、良の決断さえあれば決して不可能ではなかった。

 別れの時48 通算1013
 「人生の転機とはこのことだったかもしれない。」心の片隅にふと浮かんだ。
 しかし、何か違うものも感じていた。美津子への微(かす)かな不信感が心の底に澱(よど)んでいた。
 「奥さんを捨てられないでしょ、リョウは?」
 「…。」すでに離婚していることを、彼は告げなかった。告げれば美津子との新しい人生に踏み込まざるを得なかったからだった。
 「二十年間求めていたミツコが…。」−躊躇(ちゅうちょ)させる理由が駆け巡った。

 別れの時49 通算1014
 彼の弱さとコンプレックスが美津子を失う原因となった。それが美津子の人生を変えた。それだけでなく、彼女の夫、子どもの人生をも変えた。それどころか、彼女の子どもの存在もなかったかもしれない。
 忘れることのできない忌(い)まわしい過去となった、千晴の人生をも変えてしまった。さらには自分の妻、子どもの人生も…。恵理と美紀の人生も変えている。それがまた巡り巡って自分を変えようとしている。

 別れの時50 通算1015
 彼の弱さとコンプレックスが巡り巡って自分を苦しめていたのだ。己の持つ業の深さにあらためて慄(おのの)いた。
 「さぁ、そろそろホテルに行こう。」彼はホテルの駐車場へ車を向けた。ホテルの洋食の店に入ると、すぐにシェフが挨拶のために厨房から出てきた。
  いつも一人の彼が、いかにも上品で芸能人と見間違うばかりの美津子に戸惑っているようだった。ホテルでも美津子は場違いなほどの美しさであった。

 別れの時51 通算1016
 話好きのシェフも一歩引いたのだろう、早々に厨房に帰った。
 「リョウ、シェフと親しいの?」
 「最近、来るようになったばかりだから、それほど親しくはない。ただ、料理の腕は確かだと思うよ。」
 「何を食べさせてくれるの?」
 「トマト鍋だよ。」
 「トマト鍋?わたし食べたことがないわ。リョウがここまでわざわざ来るのだから、きっと美味しいのでしょ。」
 「ミツコにぜひ食べて貰いたくて…。」

 別れの時52 通算1017
 「嬉しいわ、リョウ。…他の人と来たことあるの?」美津子から初めて聞いた台詞(せりふ)だった。」
 「ないよ、君が初めて。」
 「ホント、リョウ?会社の人は?」
 「無いよ。疑い深いなぁ、ミツコらしくないなぁ。」
 「…だって、あの若いキレイな二人の子を…。わたしには…あの若さがないから…。」
 「ミツコには成熟した女の美しさがあるじゃないか。俺を狂わせるほどの。」
 「でも…。」美津子が見せた初めての弱気であった。

 別れの時53 通算1018
 良と美津子との二人だけの関係では、別れを恐れた弱気な姿は何度もあった。しかし、他の女性と関係では歯牙(しが)にもかけぬ自信を感じさせていた。
 四十を過ぎた曲がり角に立つ女の自信の喪失なのであろうか?
 「ミツコどうしたの?何かあるの?」
 「…ううん、何もないわ…。」その表情にはどこか寂寥感(せきりょうかん)が漂っていた。
 「女は四十を過ぎると、女であることに自信がなくなるのよ、リョウ。」

 別れの時54 通算1019
 透き通るほど白いうなじが黒っぽいワンピースに映えていた。窓越しの深い緑をたたえた湖を背景にした美津子は幻想的な美しさだった。
 「ミツコ。」 「はい。」
 「見れば見るほど…。」彼は彼女をうっとり見とれていた。美津子も彼を見つめていた。周りの客にはどのように映っていただろう?

 別れの時55 通算1020
 ホール担当の女性が鍋の用意をしている間も、彼は彼女を見つめていた。美津子はホール担当女性の説明に耳を傾けていた。
 「リョウ、説明を聞いていたの?」「全然。」「恥ずかしいじゃないの、わたしを見つめてばかりいては…。」
 「いけなかった。」
 「そんなことないけど…。」「だって、美津子があまりにもキレイだから…。」
 「リョウのバカ、こんなところで言わないで…。」彼女は耳の辺りまで赤くなっていた。
 「ブイヤーベースと同じような作り方で、いいトマトをたっぷり入れているようだ。だから、ダシが美味しいぞ。」

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       第3章 良の苦悩(BN)
 (0631〜) 恵理の葛藤「おでん 志乃」
 (0651〜) 良の隠れ家へ美紀が…「会員制クラブ 志摩宮」
 (0671〜) マンションに誘う美紀
 (0686〜) 美津子から急な呼びだし
 (0701〜) 美津子の夫のアメリカ赴任「料亭 古都」
 (0731〜) 宣戦布告以来初めて3人で食事「豆腐料理 沢木」
 (0741〜) 馴染みのバー「クラブ 楓(かえで)」
 (0756〜) 人生の転換期の苦悩「ビストロ シノザキ」
 (0771〜) 美紀の弟正一郎との出会い「イタリア料理 ローマ」)
 (0806〜) 美津子と想い出の店で「和風居酒屋 参萬両」
 (0823〜) 美津子との復活
 (0856〜) フランス料理「右京」
 (0881〜) スナック「佳世(かよ)」
 (0891〜) 美紀と初めての夜
 (0916〜) 良の家庭崩壊「寿司屋 瀬戸」
 (0936〜) 美紀の苦悩

       第4章 別れのとき(BN)
 (0965〜) 親友花村部長と4人で「寿司屋 瀬戸」
 (0986〜) 恵理の葛藤
 (0996〜) レイクサイドホテル
 (1031〜) 美津子との距離
 (1046〜) 美紀のマンションで
 (1066〜) 恵理との小旅行
 (1083〜) 「日本料理 池田」
 (1094〜) 「恵理へのラブレター」
 (1111〜) 「恵理の初めての経験」
 (1176〜) 美津子の秘密「和風居酒屋 参萬両」
 (1196〜)  美紀への傾倒
 (1221〜)  最後のメール

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